先日の日記で、郡司ペギオ-幸夫氏の雑誌記事がデタラメなんではないか、と書いたのですが、5年前の記事で、目を通す事ができる人も少ないと思うので、とりあえず記事の中の一節(第2節)の内容だけ簡単に起こしてみます。一応、引用元を再掲。
郡司ペギオ-幸夫・桑村和孝・高橋達二 (2003)
局所的意味論と現象としての計算(8) 現象論的計算としての意識:その抽象モデル
数理科学 2003年6月号 No.480
元々の記事からして私は内容が取れないのですが、更に私が手間の都合で略してるところもあるので、尚のこと意味が通じないように読めるかもしれません。そのあたりはご容赦を。
ラッセルの逆理は、集合論における内包的定義(属性)と外延的定義(対象要素の列挙)に関する同値性を覆すことで成立する。集合yの定義を、∀x∃y (x ∈ y ⇔ A(x)) で与え、内包A(x) を not x ∈ X で与えれば、内包と外延(x∈y)は混同される。(中略)これをより一般的に考える。(中略)ラッセルの逆理は、 ∈: X×X→2 ⇔ A: X → 2X において 部分と全体の混同を X→2X が全射であると仮定する。ラッセルの逆理の前提は、内包世界と外延世界があり、前者から後者への関手 X×(-) と 後者から前者への関手 (-)2X (原文ママ) とが互いに随伴関手になっていることだ。2つの関手を各々 F, Gと一般化し FX → X ⇔ X → GX が得られる(2もXとして)。自己言及の前提とは、内的変換(射)を有する2つの双対世界が、世界間変換(関手)で補完的に結ばれる事を意味する。
この前提の下で、自己言及は部分と全体を混同する。
この後、トリビアルな圏での随伴関手の例*1を出した上で、射に対するFの適用を、混同して「射の合成とみなしたとする」と、随伴に関する図式は可換にならないことを示します。そして、
以上から、随伴関手で結ばれた双対世界(圏)という自己言及の前提の下、関手と射とを混同すると、自己言及的矛盾(非可換性)が得られる。
そこで、非可換性を許容するため、「弱い関手」=対象のみを保存し、射を保存しないようなもの を導入…というのがこの節のくだりです。
あ、ちなみにここまでの引用の中に「双対世界」と出てきますが、おそらく数学的な「双対」の意味では使われてないので注意が必要です。
いろいろツッコミ所はあると思うのですが…とりあえず、「ラッセルの逆理がAとBの混同によって起こる」という記述のAとBがどんどん変化していきますが、正直、訳わからんです。「X→2Xが全射と仮定」あたりまでは、(ラッセルの逆理でなく)カントールの定理あたりを知っていれば何となく連想wはできますが、それが何故、Xと2X(=GX)とを混同する事になるんでしょ?
最終的に、「集合の外延的定義と内包的定義の混同」は「関手の適用と射の合成の混同」に置き換えられ、ラッセルの逆理は「随伴に関する図式が非可換になること」に置き換えられるのですが、この理屈が自分には全くわかりません。
ちなみにこの後、3節以降ではBarwiseのインフォモルフィズムを「弱い関手」として導入し、これを使って、脳内で起こるタイプとトークンの計算*2について考察をしているんですが、これまたちょっと、マジメに式を追っかけると謎が多いです。
*1:個人的にはココもツッコミたいのですが、長くなりそうなので略。
*2:wikipedia:タイプとトークンの区別 もしくはこのエントリーを参照。