bonotakeの日記

ソフトウェア工学系研究者 → AIエンジニア → スクラムマスター・アジャイルコーチ

『原生計算と存在論的観測』付録から読みとるペギオ氏の思考

今週は郡司ペギオ-幸夫さん一色になってしまった。これとかこれとか。
それで結局、彼の著書を図書館から借りてしまいました。

原生計算と存在論的観測―生命と時間、そして原生

原生計算と存在論的観測―生命と時間、そして原生

で、ここ2晩ほど、この付録についてる圏論の解説を読んでみたのですが、予想外に面白かったのです。つーのは、彼が自分の主張をしやすいように、あまり一般の教科書にはない、結構独特な定義をしていたりするんですね。んで、それに伴って微妙な間違いも発生してたりして、彼の思考(に伴う勘違い)の過程が見て取れるかと。
つーことで、個人的に面白かったところを、少し書き出してみます。

極限(リミット)は真の観測者、観測対象はサブカテゴリー

極限のよくある教科書的定義は、図式から錐(cone)を作って、他のどの錐からも射が唯一存在する錐(錐の圏において終対象になるようなもの)、だと思うんですが。
ペギオさんは、まずサブカテゴリー(部分圏)を

DC の観測対象またはサブカテゴリーという

として定義します。そんで、その観測対象(サブカテゴリー)の全てを観測する「観測者」を導入するわけです。(事実上錐の導入ですが、錐という言葉は出てこない)そして極限は、観測者をも観測する下の追記参照「真の観測者」として定義されます。
[追記] 違うわ。よく考えたら、極限は他の観測者からの射がある観測者なんだから、真の観測者は他の観測者から観測されてるって事か?
…と思ってペギオ本を紐解くと、こうある。

真の観測者とは、任意の観測装置/観測における観測結果を、自らの観測結果と照合でき、変換できる観測者のことである。

なんじゃそれ。観測って、観測した結果が観測対象に伝わるの?それとも、観測者間の射は観測者−観測対象の間の射と意味合いが変わるんかいな。…まぁ、そもそもペギオさん達が語る「観測問題」について殆ど知識はないので、これ以上は深入りしないでおこう。[追記おわり]


図式をサブカテゴリーとしちゃっていいの?と思って色々考えてみたんですが、とりあえずまずそうな例は思いつかなかったので、特に言い換えとしては問題はないのかもしれません。ただ、一般的にサブカテゴリーと極限は別の概念ですし。サブカテゴリーを極限が「観測」している、ってのは、個人的には不思議な気分。

あと、多分この辺にまつわる話なんですが、ペギオさんが「極限がある」というと、「圏の任意の対象に対して極限がある」と、ほぼ同値になっている風があります。この辺が次の話とつながってくると思うんですが。

普遍射の存在と随伴関手(アジョイント・ファンクター)

複数の圏が関わる状況での観測者を定義するため(^^; に、普遍射と随伴関手が導入されるんですけど。1つ気になった点がありまして。例えば、こういう記述。

後述するようにアジョイントと普遍射の存在は同義である。

こういう記述が何箇所かに現れるんですが、これは、厳密には正しくないです。正確には、アジョイントの存在と「圏の任意の対象に普遍射が存在すること」が同義になるので。

前述の通り、どうもペギオさんはそのへんの解釈があやふやなんですよね。実際に定義を与えてるところでは「圏の任意の対象に〜」というような前置きがつくんですが、気づいてないのかわざと無視してるのか、自分の論説を語る部分では忘れ去られるみたい。

普遍射と極限はやはり深い関係にありますし、極限を「真の観測者」とする以上、圏の任意の対象を観察できないといけないんでしょうか。

直積と冪の随伴性

ペギオさん、このテーマはかなりお気に入りらしい、という事が判明しました。先日話題にした記事も、前半はこの話がメインでしたし。ペギオさん曰く、g: B → CAとして

f: A×B→C を外部記述、ev(idCA×g): A×B→C を内部記述と呼ぶ

そうです。彼には重要な概念らしく、なので上記の2者が可換になるのは「定理」扱いになってるんですね。そして、

この定理によって両者の同義性が保障され、無限大の観測速度が保証される

のだそうで、冪の存在によって「世界全体を見渡せる観測者が構成されざるを得ない」そうです。
先に冪とevを個別に定義して、そこから上記の可換性を導くのは別に間違ってるわけではないんですが。このやり方が一番、彼の主張に沿っていたんでしょうね。


でも、真の観測者は極限だったはずなのですが、これは冪とどう関係するのか、個人的にはちょっと疑問。

その他・雑感

以降は、あんまり面白いところはなかったです。いや、圏論の話としては面白いですけど。トポスの中にハイティング代数を構成する話とか、あんまりマジメに追いかけた事なかったんで純粋に勉強になりました*1
…じゃなくて、あんまりペギオさん流解釈はなかったかも。読むの疲れただけかもしれませんが。

まぁその、全体にわたってペギオさん独自の解釈が、檜山さん指摘のレトリックで紛れ込むので注意が必要です。「圏論の定義・定理を私はこう解釈しましたよ」ではなく、先にペギオさん独自の解釈があって「よって次の定義が自然に導かれるのである」とか。

最後に、どうでもいい話ですが、一番最初のイントロのところ。さらっと圏論の歴史などに触れていて、全体的に結構違和感のある説明(^^; だったのですが、特に一箇所だけ挙げときますと、

Rosen (1985) によれば、(中略)Rashevsky (1954) の関係論的生物学 (Relational biology) こそカテゴリーの先駆的研究だという。

言いだしっぺがペギオさんじゃないみたいだし、「圏論みたいな話は先に生物学でやってたんだぜ」っていう、ある種のレトリックだろうという事も了承した上で敢えてツッコむと…圏論の諸概念は1940年代から整備されていたので、その関係論的生物学とやらは「先駆」ではないです。

*1:でも、この本で追いかけるのは、記述が足りなさ過ぎてちょっと大変なところがあります。Goldblattの"Topoi"必携。てかそっち読んだ方が早い。(自分は今日手元になくてえれぇ苦労した…)本文中に「この本を参照しながら書いてる」と記載がありましたしね。

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