阿部幸大氏の何が「ウソ」かを説明しておく
前回のブログ記事で、僕はこう書いた。
僕は、本当はこの場で、彼と彼の記事について色々語ろうと思っていた。
でも、この2日くらいですっかりその気は失せてしまった。
(略) (その理由の1つは)同記事への反応をネット上の様々な媒体で眺めていて、軽く絶望したからだ。 絶望した理由、それは、「どんなに正しい主張でも嘘や誇張を混じえて語ってはいけない」という、誰にも否定し得ない絶対的なルールだと僕が信じていたことを否定する人達が数多くいたことだ。(略)結局、「嘘・誇張はダメでしょ」という批判は「ダメじゃない」と思っている人には何も響かない。 なので、すっかり徒労感に襲われて、彼を真面目に評する気も更々なくなった。
なので、今もあんまり彼の論評を長々とする気は正味ないのだけど、一部でまだ、僕や、僕が作ったまとめに反発してくる人もいるので、とりあえず最低限のことだけ書き残しておこうと思う。
なお、この話題についてはもう散々議論したし、僕自身はこの話題からはフェードアウト気味なので、この文章に対する再反論を誰かが行ったとしても、反応を返すかどうかは保証できない。その点は了承してほしい。
記事の解釈で揉めた経緯
僕は最初、ザリガニ氏(前回の記事参照)の指摘は傾聴に値すると感じて、彼のツイートをtogetterにまとめた。
その際に、僕はタイトルに「阿部幸大氏のウソ」と入れた。
しかしそのコメント欄で、ザリガニ氏や僕に反論してくる人もそれなりにいた。曰く、ザリガニ氏は「誤読」しており、僕のつけた「ウソ」というタイトルは誤りだ、というのだ。
僕は最初何のことかわからず、ザリガニ氏のツイートと、阿部氏の元記事を何度も見比べた(後述するが、これは彼が文章に施した「トリック」のせいで、かなり苦痛を伴う作業だった)。結果として、「誤読」だという指摘は、決してデタラメを言っているわけではなさそうだ、とわかってきた。
しかし、これは僕の元々想定していた話より、よほど根深い、と考えるようになった。
何が問題なのかを例を挙げてまどろっこしく説明する
ということで、その記事がどう根深い問題を孕んでいるのか、その一例を出しておく。
(以下、現国の問題に対する解説を更に長々引き伸ばしたような、かなりまどろっこしい、かつどうでもいい人にはどうでもいい議論をしている。なので、そういうのを読むのが苦痛という人はこのセクションをすっ飛ばして、『何が問題なのかをまとめる』まで飛んでほしい。)
以下は1つめの記事の2ページめにある、書店・CD店に関する記述である。
釧路のように地理的条件が過酷な田舎では「街まで買い物に行く」ことも容易ではないので、たとえば「本やCDを買う」という日常的な行為ひとつとっても、地元の小さな店舗で済ませる以外の選択肢がない。つまり、まともなウィンドウ・ショッピングさえできないのだ。
したがって、私が関東に引越して自宅浪人しはじめたとき、まっさきに行ったのは、大きな書店の参考書売り場に通いつめることであった。見たこともない量の参考書が並んでいる東京の書店で、はじめて私は「釧路では参考書を売っていなかったのだ」ということを知り、悔しがったものである。
これに対し、ザリガニ氏はこう指摘した。
(「15分以外」は「15分以内」の誤りだろう。)「「本やCDを買う」という日常的な行為ひとつとっても、地元の小さな店舗で済ませる以外の選択肢がない。」
— 外来ザリガニは食べて駆除 (@winecology) 2018年4月25日
高校から15分以外のところにあるCDと本を売っているこの店は、この文から想像する店とはだいぶ違います。https://t.co/EdFerAhKvq https://t.co/b9d4Dy15gk
つまり、下記の「コーチャンフォー釧路店」が彼の通った高校の程近くにあるじゃないか、という指摘だ。この店はtogetterまとめで頂いた情報によると2001年にできたそうなので、それを信じれば、阿部氏の高校時代には存在していたようだ。また、これもtogetterまとめで頂いた情報だと、近くに進学校があったことなどから、参考書の類はそれなりに充実していたようだ。
なので、先に挙げた文章の反例になるのでは、と思われる*1のだが、そうではない(あるいは、意味のある反例にならない)と主張している人もいる。
例えば、次のブログ記事だ。
こちらは図を例に出して議論を進めているので、こちらでもその図を引用させてもらう。
こちらでその主張を要約すると、以下のような話になる。
- 該当の文章の1段落目は「釧路のように地理的条件が過酷な田舎」が主語であり、つまり①の、市街地に簡単にアクセスできる子供と、②③の、市街地から遠く離れて住んでいるので大人に連れて行ってもらわないとアクセスできない子供がいることが想定されている
- 一方、上記書店の存在は「高校生の時の阿部氏は①の環境にあったはずだ」と指摘しているに過ぎず、②③の反論にはなっていない
しかし、だ。そう解釈すると2段落めが問題になってくるのだ。
したがって、私が関東に引越して自宅浪人しはじめたとき、まっさきに行ったのは、大きな書店の参考書売り場に通いつめることであった。見たこともない量の参考書が並んでいる東京の書店で、はじめて私は「釧路では参考書を売っていなかったのだ」ということを知り、悔しがったものである。
これは主語が「私」で、阿部氏個人の、高校時代から浪人生活のため上京した際の体験談だ。そして段落の始めが「したがって」となっている。
接続語「したがって」をWeblioで引くと、こうある。
前に述べたことからの必然的な結果として以下のことが起こることを表す。それゆえ。だから。その結果。
つまり、1段落めは2段落めを結果とする条件、状況を指す。つまり高校時代の阿部氏は『地元の小さな店舗で済ませる以外の選択肢がな』かったので、その後上京して『東京の書店で、はじめて』『「釧路では参考書を売っていなかったのだ」ということを知り、悔しがった』と解釈せざるを得ない。これは、ウソだ。
しかし、1段落め(あるいはそれ以前)だけを読むと、間違ったことは言っていないようにも読めてしまう。「釧路のように地理的条件が過酷な田舎」が主語の一般論として読むと、市街地に大型書店があっても、市街地に簡単にアクセスできない僻地に住んでいる人にとっては関係ない話だ。
一方で、「したがって」の接続語込みで、1段落めと2段落めを合わせて読むと、トータルでは阿部氏個人の高校時代の体験となり、矛盾が生じる。
こうした、読む人によって解釈がコロコロ変わる箇所が、件の記事にはそこかしこに散りばめられている。
何が問題なのかをまとめる
阿部氏の2つめの記事で、彼はこう述べている。
まずは、謝罪しなくてはならない点がいくつかある。具体的には、釧路を含めた田舎にある店舗や施設、あるいは個人などを、あたかも存在しないかのごとく記述したことについてである。
(略)
ただし、私は本文で「田舎」と「釧路」と「私」という主語を使い分け、一般論、釧路の例、個人的体験などを慎重に腑分けした書き方をしているつもりである
確かに、段落レベル、あるいは文レベルで主語が「田舎」「釧路」「私」とコロコロと変わる。なので、「田舎」一般の話をしている箇所と、「釧路」や「私」つまり阿部氏個人の体験をしている箇所が細かく書き分けられている。
しかし、先の例でも述べたように、段落レベルで細かく書き分けられていても、文全体の構成を考えるといろいろ解釈不能、あるいは人によって解釈が変わる箇所がそこかしこにある。なので人によっては「ウソ」だと思え、別の人には、それはただの「誤読」だと思えるのだ。
更に問題なのは、「田舎」と「釧路」あるいは「私」の書き分けの内容である。
普通の論説文で一般的な事実と個別具体例を出す場合、一般的な事実から演繹されるものが具体例でなくてはならない。彼の文で言うなら、「田舎」の特徴として挙げられる事項がすべて「釧路」に当てはまらないといけない。
しかし、彼の文章はそうはなっていない。彼が「田舎」の特徴として書いているもののうち、「釧路」または「私」には当てはまらないものがかなりある。つまり「釧路」にはあるはずのものを『田舎にはない』と論じている箇所が多々あるのだ。一般的な事実として示される「田舎」が、彼の体験した釧路より過酷なのだ。
よって(最初に読んだときの僕を含め)読む人にとっては、釧路がとてつもない僻地にも読める。それが読む人によってはウソ・誇張・脚色と解釈されるゆえんなのだ。
早い話、彼の記事は論説文のセオリーに全く沿っていない「悪文」なのだ。
僕は、このトリックに気づいたとき、彼は故意にやっているのか、あるいは致命的に文才がないかのどちらかだと思った。しかし上記のとおり、彼自身がその「書き分け」を意図してやっている、と書いたので、これは故意なのだ、と確信した次第である。
「消防署の方から来ました」という「ウソ」
僕は、友人の例えをそのまま借りて、彼の文章を「消防署の方から来ました」話法、と呼んでいる。
「消防署の方から来ました」という有名な訪問販売の手口があるが、彼の文章はこのトリックに近い。確かに訪問販売員は『消防署から来た』とは言ってない、なので論理学的にはウソではない。しかしでは、訪問販売員は、ウソをつく意図がなかったと言えるだろうか。
阿部氏は、悪意があるかどうかはわからないが、その意味では故意に「ウソ」をついている(上記の「書き分け」がその証左だ)。
なぜウソをつくのか、は個人的な推測になるので敢えて語らない。
しかし彼は、上記のような「主語の書き分け」に腐心するより前に、もっと気を配るべき点があったと思う。自己の体験したことのみを誠実に語るなり、あるいはそれ以上のことが語りたければ、もっときちんと構成を練ったり、あるいは他の「田舎」も調査して、より一般的な田舎について語れるようにすれば良かったのだ。
あるいは、「これは釧路には当てはまらないが〜」といった注釈を適宜挟むだけでも随分違ったかもしれない。
国語がよほど苦手な人物ならともかく、彼の経歴からして、その程度の作文は、彼にできてもおかしくなかったろう、と思う。