どうも、「うみねこ」作者が後期クイーン問題なるものに言及し、物議を醸しているようです。曰く、
「後期クイーン問題」とは非常に簡単に説明すると、探偵(読者)の知り得てる情報が
“全て”であるとの証明が自身には不可能である、というものです。
この問題、もう少し、別のサイトで詳しく見てみると。
探偵Pは証拠A、証拠B、証拠Cという三つの証拠をもとに結論Xを導き出したとします。しかし、真実は証拠Cは犯人がわざと残した「偽の手がかかり」でした。ということは探偵が論理的にたどり着いた結論は間違えだった、ということになります。
つまり、この場合だと証拠Cは犯人が残した「偽の手がかかり」であるということを証明する証拠C´が必要となります。しかし、証拠C´の存在すら探偵はわからない。ましてや、証拠C´も犯人が残した「偽の手がかかり」だと証明する証拠C´´が存在するかもしれない…、また別の証拠Dが…、C´´´が…。こうやって、際限なく推理の元になるデータが増える可能性をいくらでも含んでいるわけです。
ははぁ。なるほど。
で、更に読み進めると…ん??
また「後期クイーン問題」でよく議論される〈閉じた論理体系〉〈ゲーデルの不完全性定理〉〈後期クイーンの作品〉等にはまったく触れていませんが、それは自分の実力不足です(「ゲーデルの不完全性定理」なんて意味不明ですし)。
どうも、「後期クイーン問題」提唱者の法月綸太郎が、この問題を不完全性定理になぞらえて説明してしまったようです*1。ああ、やっちゃった。
なので、不完全性定理って何?という質問に、こんな怪しい解説がなされていたり。
ゲーデル問題のことですね
『無矛盾な公理的集合論は自己そのものの無矛盾性を証明できない』ということです。判りやすく例えるとしたら「推理小説の作中に存在する人物はストーリーがフェアである(=手がかりが出揃っていて、これらから犯人を導くことが可能である)ことを証明できない」ってことです。
(仮に金田一耕助が「犯人がわかった」と言ったとしてもそのあとで横溝先生がそれを否定する手がかりを小説中に書き込んでしまえば金田一の推理は崩れます。
逆に言えば,これで手がかりが十分だと読者に示すには横溝先生に「これまでの手がかりで犯人が判る」と書いてもらわなければいけないわけです)
なんかもう目も当てられない。
わかってる人は「単なるアナロジーでしょ」で流してるっぽいですが、よくわかんないまま鵜呑みにしちゃう人もやっぱり多いみたいです。
でまぁ、実のところは比喩・アナロジー以上の何者でもなく、完全な別物です。なので、クソ真面目に色々突っ込んでたらそれこそきりがなさそうなんですが、
この理論の前提は、本格ミステリ作品が〈閉じた形式体系〉である、というところにあります。
閉じた形式体系な訳ないじゃんと思ってしまうのは、私がまだ未熟だからでしょうか。
いやー、自分も前に「うみねこ」のトリックを形式化しようとしてみたりしましたが、これも(これまた色々物議を醸しているらしい)赤字システムがあるからやる気になるんであって、普通の推理小説を丸々形式化なんて、とてもやる気にならないです。
つか、元の問題に立ち返って、
つまり、この場合だと証拠Cは犯人が残した「偽の手がかかり」であるということを証明する証拠C´が必要となります。しかし、証拠C´の存在すら探偵はわからない。ましてや、証拠C´も犯人が残した「偽の手がかかり」だと証明する証拠C´´が存在するかもしれない…、また別の証拠Dが…、C´´´が…。こうやって、際限なく推理の元になるデータが増える可能性をいくらでも含んでいるわけです。
これって、単に公理がまともに定義できないってことなんじゃないの?